“ 文治元年(1185年)11月25日から文治2年(1186年)3月27日頃まで、北条時政は頼朝の代官として在京していた。 それに対して大江広元から意見を求められた北条泰時は、「郎従の身として諸院宮昇殿の者を殺害するなど、武士の本分にもとる行為だ。北条時政・ これはその後北条政子と北条義時が父時政を追放したという「背徳」を正当化する伏線となっている。北条泰時・先の2例は、北条氏の行動の正当化の色合いが強いが、次ぎに顕彰の代表例を、時政、泰時、時頼の3人について紹介する。 ”