“ 安永六年丁酉に錦橋は、享保二十年生として四十三、正説元文元年生として四十二になつてゐた。系図京水本の下(もと)に「実以元文元年生、一伝享保二十年生」と註してゐる。錦橋初代池田瑞仙は、系図諸本及書上(かきあげ)に拠るに、寛保二年壬戌に怙(ちゝ)を喪つた。錦橋の年齢は京水の記載を得て一層の紛糾を加へて来る。錦橋は書上に拠るに、二十歳にして桑原玄仲に雑病の治術を受けた。其他の人々中吉田快庵「法眼、奥御医師、御役料二十人扶持、両国若松町、」千田玄知「表御医師、後寄合、二百俵、駿河台、」此二者は武鑑に見えてゐる。 ”