“ 対立の発端は、河内を巡る主権争い、守護代の木沢長政が守護の畠山義堯(義宣)から守護職を奪い獲る企てが発覚したことにある。足利義維を擁する細川晴元が実権を握った為、和平が訪れるかに思われた。享禄4年(1531年)8月、怒りをあらわにした義堯は三好元長の一族三好勝宗(三好一秀)に頼んで飯盛山城を攻めたが、長政からの援軍要請を受けた細川晴元によって撤兵命令を下されたため、三好勝宗は一旦兵を収めている。
ところが細川高国を討滅させたという軍功を挙げていた三好元長と木沢長政の対立が、新たな戦乱を引き起こしていた。 ”