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文久元年(1861年)の和宮の中山道下向では松代藩、上田藩、高遠藩が乗輿警衛を、その他諸藩が沿道守衛を命じられた。麻績騒動、松代騒動などの世直し一揆が多発し、中でも最大規模の中野騒動では県庁舎が焼失し、県庁の長野移転の契機となった。 このころ国内の旗本領および幕府領の一部(松本藩預地)が伊那県の管轄となる。広大な県域を持つ長野県では、地域間、特に長野市と松本市との対立の歴史がある。